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御神宝奉納のこと

2008年1月28日

天下の勝地「長瀞」

平成19年11月23日勤労感謝の日、御神宝として一腰の太刀が奉納されました。

埼玉県秩父郡長瀞町は、甲武信岳に源を発する荒川が秩父山地の狭隘部の片岩を削り、『天下の勝地』と称えられる「長瀞」を形成して貫流する地に位置します。

荒川両岸には古く和銅採掘蹟(銅の入沢採掘坑跡・西浦採銅坑跡)あるいは金属に関係するのではと想起される地名(金崎・金尾・金沢・金石・銅の入沢)があり、この宝登山もその例にもれない。

代表的な史蹟は秩父市黒谷の和銅史蹟があげられます。ここから産出された和銅が、慶雲五年(和銅元年と改元)「自然(おのずから)に作成(な)れる和銅(にぎあかがね)出でたりと奏して献れり」と伝えられています。

さて、秩父地方史家の和銅研究者の中には「宝登山の周りには、和銅の精錬痕がある」と発言する人もいます。

囲炉裏や炉などで火が燃えるところ、特に鍛冶業の世界では鞴で空気を送り金属を加熱して溶解或いは加工しやすく「アカメ」る火処をホドといいます。

寳登山神社御祭神は神武天皇(神日本磐余彦尊)・大山祗神・火産霊神の三柱を祀り、神使の大口真神がご眷属として信心されております。

御鎮座以来千九百年営々と祭祀が営まれ、平成二十二年御鎮座千九百年の佳節を迎えることとなり、現在社殿の改修が着々と進められている処であります。

宝登山からの眺望

近年は「寳登山」の社号が「宝が山に登る」や「宝の山に登る」とかで財運・金運のご利益が巷間伝えられます。しかし、氏子崇敬者の内で金属加工に携わる方々からは祭神の内でも大山祗神(オオヤマヅミノカミ)・火産霊神(ホムスビノカミ)を信心される方が多くみうけられます。

鉱石加工関連業を営む氏子お二人で、刀剣への造詣も深く、

(1)
寳登山神社創建に係わった日本武尊が天叢雲剣(後の草薙剣」を携えてこの地に分け入ったこと。

(2)
祭神の神武天皇は日向地より多くのツワモノを率い国の肇を成し遂げた初代天皇であること。
(3)
大山祗神は鉱物・動植物を生成し、砂鉄や木炭の元となる樹木を生み出し、火産霊神は鉄を溶かし、利器など様々なものを生み創り出すなどの霊力があり、共に企業の祖神とのこと。

奉納太刀

演武する山口洞龍氏

などから、神恩に感謝すると共に寳登山神社御鎮座千九百年を記念して、宮入小左衛門行平門下で、美里町に鍛刀場を構える川崎晶平刀匠に奉納太刀の作製を平成十八年秋依頼してから一年の後、晴れて奉納の運びとなりました。

平成19年11月23日奉納者二名と川崎刀匠・神社崇敬者多数が参列し見守る中、神納の儀式が厳粛に執り行なわれた。

恒例の新嘗祭に引き続き、神職による奉納太刀「修祓」の後、寄居北条氏(鉢形城)に伝わる古武術武源流宗家であり、崇敬者でもある山口洞龍氏により「入魂の儀」が奉仕され、宮司が奉納奉告の祝詞を厳かに奏上し、太刀は末永く神宝として神座近くへ納め奉られ、大神の嘉しする処となりました。

奉納太刀 中子

川崎刀匠は「神の近くで私の鍛えた太刀が永遠の時を過ごすかと思うと感無量であり、今後も精進に励み続けてゆく覚悟を強くいたしました」と力強く語っていました。

川崎晶平刀匠が鍛える太刀は二尺四寸六分、地鉄は沸深く、刃の冴えた勇壮な姿であります。

この度の御神宝太刀奉納を中心にお話しいたしましたが、神仏分離後から終戦直後までの寳登山神社には、氏子・崇敬者・講社講中を始めとする方々から多くの品が神宝として納められていたと古い氏子は伝えますが、明治早々の神社経営上の困窮、度重なる祀職の移動、神職の出征や大東亜戦争末期当時農兵隊宿舎に充てられるなど、時代の波に翻弄される中で散逸し、無きが等しき状態にありました。

しかし、昭和40年代初頭から徐々にではありますが、崇敬者・講社講中の方々から再び御神宝が納められるようになりました。

御神宝刀については崇敬者で有ります方々から神恩感謝の真心こもりました御奉納を賜わり、神座近くへ納め奉られ、大神の嘉しする処となり御神威弥益し、御社頭賑び栄えますことは誠に目出度き極みにございます。

カテゴリ: HODOSAN-KUN の文机
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