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寳登山神社初代神職小菅是道(榮乗)のこと

2007年1月16日

寳登山神社創建は景行天皇40年(110)日本武尊御東征の時と伝えられ、神日本磐余彦尊(神武天皇)、大山祇神、火産霊神の御三柱をお祀りします。一方玉泉寺は永久元年(1113)、弘法大師来巡と伝える当地に僧空圓が開基にかかわり、爾来代々の住職は別当職として755年にわたって寳登山大権現(神仏習合当時はこのように称していた)の祭祀をも続け、特に46世榮乗は京都御室御所の院家格を賜るなど、寺格を高めると共に、寳登山の社殿の再建に半生を捧げました。

江戸の町民文化が爛熟へと向かい、伊能忠敬が蝦夷地を測量する寛政12年(1800)、常陸國真壁郡関本村(茨城県筑西市)に一人の男の子が誕生します。この人物こそ後の小菅是道(榮乗)その人です。

どのような幼児期を過ごしたか今となっては調べようもありませんが、本山に提出した履歴の写しを参照しつつ、彼の人生を追ってゆくことにいたします。

9歳になった彼は筑波郡作谷村の東済寺にて得度し仏業の修行に入ります。13歳になると武蔵國埼玉郡上羽生村の正覚院において「新加」が認められます。

「新編武蔵風土記稿」に

「正覚院 新義真言宗 無上山と号す 寺領二十二石余は慶安五年賜はれリ 当寺の由来を尋るに 元下総國猿島郡木立村興福寺の末なりしに 至徳年中洪水のためにかの寺退転せり 因て住僧阿宥当寺に移り 再興して法脈を改め 醍醐三宝院意教方となれり 故に本山はなく此僧を以て開山とせり 応永二年二月朔日示寂 当寺八世重誉は 古河公方晴氏深く帰依して祈願所となれり 元羽生城辺にありて 数々兵火に罹りし故 其災の避んがため 一旦上岩瀬村に移りしが 文禄三年今の地に復せり」

とあり、 現在、羽生市の中心地に本堂の大屋根が偉容を誇り、なかなかの古刹を今に伝えています。榮乗の生まれ在所にほど近い寺の末寺であったことなどから、縁あって羽生の寺に修行の場を求めたものと考えられます。

文政4年(1821)22歳となった榮乗は正覚院の末寺である岡古井村真如院の住職になります。岡古井村は「新編武蔵風土記稿」が編纂された当時「民戸八十軒」程度の村で、真如院は「医王山東光寺と号す 本尊薬師を安ぜり 開山秋栄正保四年正月二日寂す」と紹介され、阿弥陀堂と二尺余りの地蔵を安ずる堂を配していました。

二年後24歳の時、江戸湯島圓萬寺道場において、仏と縁を結ぶ「伝法潅頂(でんぽうかんじょう)」を受け、「阿闍利」となった其の翌年、文政7年(1824)には「智山留学六箇年御許状」を頂戴し、京都智積院にて大日如来が宇宙の真理を説くという教えを得る為の厳しい修行の日々を送ったであろうことが推測されます。

その後、武州榛澤郡本郷村の東陽寺住職となり、ほど近い針ヶ谷村の地方談林として著名な弘光寺において34歳の折「初法談」を行なっています。すでに中堅僧侶として活躍していたことと想像できます。弘光寺は東陽寺を末寺に従え、「風土記稿」には

「弘光寺 新義真言宗、教王山佛母院と号す、寺領三十石の御朱印を慶安元年賜へり、當寺は弘法大師、大同二年開基せし大道場なりと傳へて、今に大坊と稱す、されど創建の詳なることは知らず、中興僧祐尊は慶安三年正月十八日寂すといへば、兎に角古刹なることは論なし、和州小池坊の一臈住職する寺なる故、彼の末寺など世人はいへど左にあらず、元より無本寺なり、古よりの記録・什寳等許多ありしといへど、文化年中火災に罹りし故、無本寺たりし由來、その外のこと都て詳ならず、本尊不動を安ず 鐘楼寛永十八年の鐘ありしといへど、今は寳永二年再鑄せるをかく 聖天社 稲荷社 天神社 雷電社 善女龍王社 疱瘡神流行神合社 観音堂」

とあり、なかなかの寺であることがうかがえます。また、東陽寺については、

弘光寺 客殿

「真義真言宗、針ヶ谷村弘光寺の末、歓喜山法地院と号す、本尊不動、 薬師堂 寺中 安養寺本尊弥陀、無量山と号す、 寺中に山号あるは稀なり、殊に東陽寺もさせる大寺ならねば、由ある寺中ならん」

と著わされ、智山留学の中堅僧侶が預かるにふさわしい由緒がありそうです。

弘光寺は現在も広い寺域を有し、本堂にいたる長い参道と本堂、天保4年(1833)建立の書院造りの客殿は地方談林の寺容を誇り、新造当時の客殿に足を踏み入れた榮乗は、多くの学問僧を前に講話をしたことと想像します。そして彼が「いずれ自分も斯くの如き事業を」と心に誓っても不思議ではない趣があります。

榮乗39歳の天保9年(1838)、玉泉寺の46世住職として迎えられ寳登山大権現との縁が生まれ、その後の人生すべてを傾注し寳登山大権現の社殿再建への道を歩みだします。

弘化2年榮乗は寳登山大権現に寄せる理想や抱負、宝登山信仰を「勧化帳」に表します。

抑寳登山大権現は神日本磐余彦尊にして 往古弘仁年中弘法大師旅行の砌 山頭金色に輝き麓より瑠璃泉湧出し 就中金胎両部の質備りしものと感詠あり 然る処不思議哉池中より宝珠光を放て嶺上に翻る。是摩尼玉なり 寔に神変の御告神祇勧請なすべき霊場なりとて 則開基あって宝の山に登るの名あり 夫より利益豊にして火災盗難天魔四足除海上安全蚕守護の御神にして 年を歴月を重て繁栄せり。然るに永禄の頃武田家のために焼亡せられて 其後たへて造立のいとま空しく 今に至るまで本殿仮殿なり。依て此度宿願を起こし十方の御助力を奉願 本社殿再建せぬことを庶幾 御信心の御方様には厚志の思召を起され 子孫永続家内繁昌のために御寄附被成下 記帳の御方へは 於御神前永代長日祈祷無怠慢抽丹誠可令修行もの也

この「勧化帳」を携え地元は申すまでもなく、江戸市中にも一時仮居を構え募財に励み、三十年余に及ぶ社殿再建の事業に邁進します。この事業活動についてはホームページ「寳登山だより第5回~寳登山神社の再興~」を参照して下さい。

江戸後期は地方の町・商人のうち指導的立場にあった者や庄屋階級に属するような農民の中にも国学を学び、尊王の気運が興りはじめる時期でもありました。

殊に榮乗の在所の水戸藩は尊王の気風下々にも行き渡り、彼が玉泉寺住職に就く5年前、「同四年(同は天保)公(徳川斉昭)在國の際隅々感する所あり若し神武帝をして日本武尊の如き遺跡あらしめば、其の社殿を藩内に創建して士民に原始報本の念を起こさしめんと欲し之を史館総裁に謀り・・云々」(水戸藩資料)とあり、庶民に日本の国の興りと皇室の由来を理解させる可く努め、烈公徳川斉昭は自ら那珂湊に鎮座する橿原神宮に一剣を納める寄進状を認め、束帯を着し参拝しと(茨城縣神社誌)記録は語っています。

徳川斉昭公は歴代天皇の山稜の所在確定及び修復、そして祭祀復興を熱心に幕府に説き続け、やがてその流れは神武天皇祭の創出につながり、「神武創業」の精神は世界的潮流の中で幕藩体制ではいかんともしがたくなった中に、新しい時代を切り開く時代思想へともなって行きます。

榮乗も時の流れを敏感に感じ取っていたに違いありません。新しい時代の到来を予感し神武天皇建国の理想にも思いを馳せ、社殿建設に一生を捧げたと考えても間違いがないと確信しています。

世界史の中で一度頂点を極めた国家には二度目の輝きはないと言われています。 神々が生み成し給うた八十島八十国(やそしまやそくに=多くの島々からなる国との意)を神武天皇は「我が國」と興し「日出ずるところ」とも「日の本の國」とも稱え、世界に先んじ日の恵みを頂戴し、輝き続けること2667年、皇基いよいよ盤石にして今日を迎え、五大洋にその大稜威を蒙らしめる時と存じます。

我ら今を生きる寳登山神社神職も榮乗(寳登山神社初代神職小菅是道)の心をわが心とし、大神様の御加護のもとに「神武創業」の精神を今に伝え、心も新たに御鎮座千九百年記念事業を進める所存でありますこと、ここに顕かにいたします。

復元予想

現状

復元予想

現状

註:
神社新報刊「神道と祭りの伝統」より著者茂木貞純氏の許可を得てホームページ用に改めました。
カテゴリ: HODOSAN-KUN の文机
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