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聖なる空間

2004年9月1日

寳登山神社 宮司 中山高明

奥秩父の山に源を発した荒川、この荒ぶる川が宝登山の山懐で、初めて長い瀞となる。
この荒川の清き流れを歌人烏野幸次は

──長瀞を御手洗にして此の里の 鎮めと居ます宝登山の神

と歌った。

また、明治の偉人澁澤栄一は

──長瀞は天下の勝地 宝登山は千古の霊場

と揮毫(きこう)した。

寳登山は秩父連山にあって数少ない独立峰であり、秀麗な山容は四季折々の美しさで、訪れる人の心を和ませている。自然は神々の恵みであり、山川草木豊かな自然に恵まれた寳登山は、まさに神の鎮まり給う山である。

言うまでもなく、神社は聖なる空間、清らかな場所であり、清らかな時間を清らかな気持ちで参拝して戴ければと思う。そして、まず日々の御加護を感謝した上で、心の中で祈念し、更にその願いに対して、一所懸命努力することを誓って戴きたい。

私共は日常の生活に追われる一方、心の清安を求めている。家庭の中で心休まる聖なる空間はどこかと考えると、それは神棚であり、先祖を祀る御霊舎であろう。祖父や祖母、また父母が神棚や仏壇・御霊舎の前で拝んでいる姿を見て育った子供は、目に見えない、声も聞こえないその空間に何か畏いものがある、或いは先祖があって自分が生かされているということを理屈ではなく感じ取って、情緒的にも安定し、凶悪な事件を起こす確率も少なくなるのではないか。

世界中で争いごと、貧困や飢餓等に苦しんでいる人々がいる中にあって、私たちは平和であり、不自由なく暮らしてはいる。

しかし、衣食が足りてなお、心和み、癒される場所と時間を求めて止まない。

遥か悠久の昔、日本武尊がこの寳登山に登り、神武天皇・山の神・火の神を祀られたのも、神々や祖先への報恩感謝の心からでありましょう。更には東北地方平定という偉業を成し遂げ、戦いに疲れた尊自身と兵の心身を秀麗な寳登山の自然で癒そうとしたのではなかろうか。

本稿は学研発行の「週刊神社紀行46秩父三社」へ掲載したものを一部訂正して転載した

カテゴリ: HODOSAN-KUN の文机
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