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金子兜太と句碑~寳登山神社と俳句について~

2026年8月26日

秩父は古くから俳句が盛んなところで、村々で日々作句に親しみ、時には江戸から俳諧の師を招き句会を催す、あるいは「お日待ち」に合わせ句会を開くなどし、郡内の多くの神社仏閣に奉納句額を掲げ、多くを今に伝えています。

当神社名誉宮司であった横田茂は職務の傍ら俳句に親しみ、多くの句友と交誼をつくしました。俳句との係わりは終戦後しばらくのことで、皆野町の医師金子元春(伊昔紅 いせきこう)が「雁坂俳句会」を結成し、郷党多数が敬愛する伊昔紅の謦咳に接し、山野辺歩考、塩谷孝、新井武平、岡田壮三、松本旭、金子兜太、金子千侍、岡田迷子、仁義親子らと共に超結社の気儘な句会を神社に催し、句碑の建立に応ずるなど寳登山神社を「俳句の杜」と標榜としてきました。

宝登山神社境内に納まる金子兜太句

宝登山神社境内に納まる金子兜太句

平成28年11月3日境内に金子兜太の句碑を建立しました。兜太の父は金子元春であり、伊昔紅の俳号で知られる俳人でした。伊昔紅は郷土に伝わる古い盆踊りを今日の秩父音頭として全国的民謡に大成し「秩父音頭家元」として普及に努めました。
兜太は2歳から4歳まで父の勤務地であった上海で過ごし、帰国して以降は皆野町で育ちます。大学卒業後日本銀行に入行した後、海軍士官として従軍し、戦後日本銀行に復帰した経験を持ちます。その後俳人として活躍し、現代俳句協会会長を務め、社会性俳句運動並びに前衛俳句運動の旗手として日本を代表する俳人となります。兜太の句碑は皆野町と長瀞町に13基あり、今尚「俳句の杜」の志は連綿と受け継がれています。

令和8年6月20日には金子兜太句碑建立10年記念事業として、兜太の子息である金子眞土先生を講師に迎え「父、兜太を語る」と題し講演会を当神社にて行いました。当日は親族や生前昵懇の仲であった方を始め、文化財保護関係者や郡内俳句愛好家40人が参加しました。

金子眞土先生による講演会の様子

金子眞土先生による講演会の様子

眞土先生は大学で考古学を学び、官公庁に学芸員として勤め、文化財の保存・修復に尽力しました。俳句の世界では親子師弟の関係が多いが、先生は君子危うきに近寄らずが如く「俳句は危うい」と考え、俳句を詠むことはないそうです。父兜太の姿や本質を俳人という色眼鏡なく語っていただきました。
兜太は常に常に行動し変化していく事、絶え間ない刷新の状態であることに関心があり、過去の物を称賛される受賞には興味がなく「君子は豹変す」の様な人であったと明かし、眞土先生は父のこの性格が好きだったと語りました。また世間一般では「豪放磊落」の印象を得ているが、これは戦争が影響していると考え、海軍士官として従軍し、戦後は大尉として捕虜をまとめた経験値が、理想のリーダー像として「豪放磊落」の面を形成したと先生は分析しました。
学生時代の集合写真では中心ではなく隅にいることからも目立つような人ではなく、控えめで慎重な人であり、本質は意外に小心者であると明かしました。父伊昔紅は俳句界で揉めた際には皆をなだめる役回りをし、そんな父の姿を見て成長した兜太は大きな影響を受けたようです。小心者で無謬性な性格を持つ兜太は講演会の際は必ずメモを忍ばせていたと語り、子息しか知り得ない兜太の素顔に参加者は皆一様に関心を寄せていました。

講演会の後、兜太の句碑を始め神社境内にある13基の句額・句碑を宮司が案内しました。俳句の縁を以て父金子伊昔紅、長男兜太、次男千侍、父子三代の俳句を目にする稀有な社であります。

錦耀俳句会句碑建立記念

【錦耀俳句会句碑建立記念】

俳句会は平成12年秩父の俳人有志が会を結成し、超結社の親睦を深め横田茂、金子千侍の指導を受けつつ句碑建立と句会催行を記念し句額を納めました。

【金子千侍】

金子千侍は兜太の弟であり、伊昔紅から医院を継ぎ、家業の傍ら、秩父音頭の2代目家元として尽力するとともに、自身も俳人として活躍しました。

令和8年 7 月16日には木曜俳句会の句碑が新たに建立され、境内には14基の句碑・句額が納まりました。境内を散策され、日本文化が誇る「世界で一番短い詩」また「十七文字の詩情」と称えられる俳句に関心を寄せていただき、「ことば」がもつ魅力あふれる世界をじっくり味わってください。願わくば「俳句の杜」を標榜する当社を吟行の地として来訪し、創造の場所としれていただければ幸いです。

カテゴリ: HODOSAN-KUN の文机
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